大阪の懐かしい観光地7選!なぜ消えた昭和の名所

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この記事では、40代〜50代の大阪人なら誰もが胸を熱くする「懐かしのレジャースポット7選」を振り返ります。

休日の朝、お弁当の匂いで目を覚ましたあの頃。

ラサのスケート靴の歩きにくさや、弁天町の平たい紙コップで飲んだ冷水の味、阪神百貨店のいか焼きの香ばしい匂いを、今も鮮明に覚えていますか?

昭和から平成にかけて、大阪の街には私たちが夢中になった「魔法の空間」が確かにありました。

今では高層住宅や商業施設に姿を変え、すっかり景色は変わってしまいましたが、あの時の熱気と興奮は私たちの記憶の奥底に眠っています。

当時の空気感や、地元民しか知らないリアルな情景を辿りながら、もう一度、あの無邪気でキラキラしていた昭和の休日にタイムスリップしてみませんか?

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目次
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【前半】昭和の熱狂!誰もが夢中になった伝説の遊び場

高度経済成長期から昭和後期にかけて。

週末になると、少しよそ行きのおめかしをして家族で出かけるのが、何よりの楽しみでしたよね。

マイカーの窓から見えてきた大きなゲートに胸を高鳴らせたり、電車の中でギュッと握りしめたお小遣いが手汗で少し湿ってしまったり……。

まずは、大阪中の子どもたちや若者がこぞって押し寄せ、誰もが一度は足を運んだであろう前半の3スポットから振り返っていきましょう。

懐かしい思い出の扉が、ゆっくりと開きますよ。

ラサ・スケートリンク(大阪市此花区)

引用:Facebook

大阪市此花区の高見にかつて存在し、地元民に強烈なインパクトを残した巨大スケートリンクです。

室内世界最大級!画期的な二重構造リンクの熱気

https://ameblo.jp/nandemo75/entry-12572516123.html

1963年(昭和38年)のオープン当時、室内としては世界最大を誇った夢のスケート場。

初めて履いた貸しスケート靴の、足首がうまく固定されずペンギンのようにしか歩けないもどかしさを覚えていますか?

リンクに足を踏み入れた瞬間のひんやりとした空気と、小さな売店から流れる軽快な音楽は、まるで日常から切り離された「異世界」に迷い込んだかのようなワクワク感がありました。

  • 画期的な二重構造
    外側は1周250mのスピードリンク、内側はフィギュアやホッケー用のメインリンクという斬新な造り。
  • 伝説のオープニング
    初日には来場者が殺到しすぎて、なんと機動隊が出動して整理にあたるほどの大騒ぎになりました。
  • 夏の顔
    冬だけでなく、夏には関西初となる「サーフスライダー」を備えたプールガーデンが大盛況。屋外ステージでの芸能人イベントも熱気にあふれていました。

帰りの定番ルートは阪神百貨店の「ど貧民食堂」

スケートでヘトヘトになるまで滑り、お腹がペコペコになったら梅田へ寄り道するのが休日の黄金ルートでした。

向かう先は、阪神百貨店の地下食堂街です。

当時の定番グルメ事情思い出のハイライト
愛着のある呼び名「貧民食堂」「ど貧民食堂」と自虐的に、しかし親しみを込めて呼ばれていました。
お小遣いに優しい和洋中どんなメニューを頼んでも100円均一
子ども同士でも気兼ねなく注文できる価格設定でした。
忘れられない味熱々の餡がたっぷりかかった「チャンメン」
スケートで冷え切った体とペコペコのお腹に、あのトロミが涙が出るほど染み渡りました。

惜しまれつつ閉鎖、現在は巨大な高層住宅群へ

もともとは化学肥料工場の跡地を再利用して作られた施設でした。

ちなみに「ラサ」という少しエキゾチックな響きは、運営元のラサ工業がリン鉱石を採掘していた沖縄の「ラサ島」に由来しています。

多くの大阪人に愛された非日常の空間でしたが、1984年(昭和59年)に惜しまれつつ閉鎖されました。

現在、その跡地は「高見フローラル・タウン」という大規模な高層住宅群へと完全に姿を変えています。

現地に行っても当時の面影は全くありませんが、氷を削るエッジの「シャッ」という音や、チャンメンの温かい湯気は、私たちの心の中で今も鮮明に生き続けています。

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みさき公園(泉南郡岬町)

大阪の最南端、泉南郡岬町にあった南大阪を代表する総合レジャーランドです。

大名物!シャイニースタジアムのイルカショー

みさき公園といえば、何といっても大阪湾を借景にした「シャイニースタジアム」での大迫力のイルカショーです。

潮の香りが漂う客席で、イルカたちが水しぶきを上げて高くジャンプするたびに、子どもたちの歓声が青空に吸い込まれていきました。

ここは単なる遊園地にとどまらず、一日では遊びきれないほどの魅力が詰まった夢の国でした。

  • 動物園と水族館
    ライオンやキリンを間近で見た興奮と、薄暗い水族館のひんやりした空気。
  • 夏の大型プール
    夏休みになると、真っ黒に日焼けした子どもたちで溢れかえりました。
  • スリリングな遊具
    海風を受けながら乗るジェットコースターの、少し錆びたような独特のきしみ音も今となっては愛おしい記憶です。

遠足の定番!潮風を感じる芝生広場でのお弁当

関西、特に南大阪周辺の小学校に通っていたなら、春や秋の「遠足」の聖地として記憶に深く刻まれているはずです。

リュックサックの中で少し偏ってしまったお弁当の蓋を開けた瞬間の、卵焼きや唐揚げの匂い。

なだらかな芝生の広場にレジャーシートを敷き、キラキラ光る海を眺めながら友達と一緒に食べる手作りのお弁当は、どんな高級レストランにも勝る最高の味でした。

潮風に吹かれながら芝生を転げ回って遊んだ、あの日の青草の匂いが蘇ってきませんか?

63年の歴史と、多くの人が涙した最終日

1957年(昭和32年)、南海電鉄による沿線開発の一環として自然の地形を活かして開園して以来、何世代にもわたって愛されてきました。

しかし、レジャーの多様化や少子化の波には抗えず、末期は赤字が続き、2020年に惜しまれつつ63年の歴史に幕を下ろしました。

忘れられないフィナーレと現在記憶のなかの情景
涙の最終イルカショー最後のステージで、リーダーのイルカ「ダック」が『ありがとうございました』と書かれたくす玉を見事に割る姿。
その瞬間、会場にいた多くの大人が堪えきれずに涙を流しました。
現在の姿跡地の再整備は法廷闘争へと発展し、現在は立ち入り禁止のままひっそりと放置されています。
地元民のリアルな声閉園後も外周は近隣住民のウォーキングコースになっており、通りかかったおばちゃんたちが「懐かしいねえ」と立ち止まり、当時の記憶を蘇らせています。

園内の時計は止まってしまいましたが、ダックの雄姿や芝生広場でのお弁当の味は、私たちの心の中で永遠に生き続けています。

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弁天町交通科学博物館(大阪市港区)

大阪市港区の弁天町駅高架下にあり、子どもたちの「科学のプレイルーム」として愛された博物館です。

環状線の車内で「ベンテンチョー」というアナウンスを聞くだけで、条件反射でこの場所を思い出し、ワクワクした大阪人は多いのではないでしょうか。

0系新幹線の実物展示と模型パノラマ室の興奮

入館料は大人400円、小人100円。

子どもが自分のお小遣いを握りしめて日常的に通える、夢のような空間でした。

館内に入ると、油と古いモケット(座席の布地)が入り混じったような、鉄道特有の匂いがふわりと漂ってきましたよね。

  • 夢の超特急「0系」
    実際に車内を見学できた本物の新幹線。運転席に座ってレバーを握り、運転手気分を味わった誇らしい記憶が蘇ります。
  • 白熱の「模型鉄道パノラマ室」
    巨大なジオラマの中を模型が走り抜ける大人気コーナー。録音された音声ではなく、学芸員のおじさんによる「マニュアルなしの生解説」と絶妙な手動運転に、ガラスにへばりついて食い入るように見つめました。

踏切のボタンと冷水器の紙コップの記憶

引用:YouTube

壮大な展示物と同じくらい、私たちの記憶に深く刻み込まれているのが、館内の何気ない日常の風景です。

五感に残る懐かしの記憶思い出の情景
無限に遊んだ「踏切」館内にある本物の踏切。
ボタンを押すと「カンカンカン」と甲高い警報機が鳴り、遮断機が下りる仕組みでした。
面白くて何度も何度も押してしまった「あるある」の代表格です。
あの「平たい紙コップ」封筒のようにペタンコになった薄い紙コップを、指でパカッと広げて飲む冷水器。
あの独特の紙の匂いと、少しずつ漏れそうになるスリル。
なぜか家の麦茶より美味しく感じましたよね。

閉館後、深夜の一般道で行われた新幹線の大移動

1962年(昭和37年)、大阪環状線の全線開通を記念して高架下という都市のデッドスペースに見事誕生した博物館でしたが、施設の老朽化と手狭になったことから2014年(平成26年)に閉館しました。

展示物の多くは京都鉄道博物館へと移設されましたが、閉館後、深夜の一般道を巨大な「0系新幹線」が陸送されていく姿は大きな話題を呼びました。

暗闇の国道を静かに進む新幹線の丸い鼻先を、涙ぐみながら見守ったファンや近隣住民の姿は、とてもエモーショナルな光景でした。

現在はイベントエリア「べんてんひろば」となっていますが、高架下を通るたびに、あの日響いていた踏切の音が耳の奥に蘇ってきます。

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【コラム】なぜ大阪の遊園地は消えたのか? 昭和レジャーブームの熱狂と盛衰

前半戦で振り返ったような活気あふれるレジャースポットは、なぜ次々と姿を消してしまったのでしょうか。

ここで少し時代を俯瞰し、昭和の熱狂と、その後に訪れたレジャー産業の移り変わりについて紐解いてみましょう。

誰もが熱狂した「一億総レジャー時代」の幕開け

1970年の「大阪万博」を起爆剤に、日本は空前のレジャーブームに沸き立ちました。

生活が豊かになり、マイカーの普及や電鉄各社の沿線開発が重なったこの時代。

週末のたびに、よそ行きのおめかしをして郊外の大型遊園地へ繰り出す家族連れの熱気は、今では想像もつかないほどでした。

「日曜日は遊園地に行くで!」というお父さんの言葉が、子どもたちにとって何より嬉しい最強の魔法だったのです。

娯楽の多様化と、黒船「USJ」の襲来

しかし、永遠に続くと思われた熱狂も、平成に入ると少しずつ形を変えていきます。

そこには、地元の遊園地を脅かすいくつかの大きな波がありました。

  • 娯楽の「インドア化」
    ファミコンをはじめとする家庭用ゲーム機の爆発的普及やインターネットの登場で、子どもたちの遊び場が「外」から「家の中」へと移り変わりました。
  • 圧倒的な「黒船」の登場
    2001年、ついに「USJ」が開業。
    最新ハリウッド映画の圧倒的な世界観と潤沢な資本力の前に、昔ながらのローカル遊園地は太刀打ちできませんでした。
  • 相次ぐ悲しい閉鎖
    少子化の進行に加え、エキスポランドの事故による安全神話の崩壊や、屋内遊園地フェスティバルゲートの破綻なども重なり、関西の遊園地は次々と姿を消していくことになります。

街の景色は変わっても、記憶は色褪せない

かつて私たちが笑顔で駆け回った遊園地の跡地は、今では高層マンションや大型商業施設へと姿を変え、すっかり別の景色になっています。

しかし、そこで感じた興奮や、家族と手を繋いで歩いた温かいノスタルジーは、決して色褪せることはありません。

そんな失われた昭和の景色の中で、ひときわ数奇な運命を辿り、私たちの心に深く刻まれているのが、ミナミのど真ん中にあった「大阪球場」です。

さあ、後半はこの伝説のスポットから再び記憶の旅に出発しましょう。

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【後半】もう二度と見られない…街角から消えた幻のレジャースポット

コラムで時代の移り変わりを振り返ったところで、いよいよ後半戦へと参りましょう。

後半は、ミナミのど真ん中にそびえ立った異空間から、デパート屋上の小さな夢の国、大大阪時代の幻の遊園地まで、一気に駆け抜けます。

もう二度と行くことはできなくても、目を閉じればあの頃の歓声と匂いが鮮やかに蘇ってくるはずです。

さあ、再び思い出の扉を開けましょう。

大阪球場(大阪市浪速区)

大阪市浪速区の難波エリアにそびえ立ち、「昭和の大阪城」と称えられた南海ホークスの本拠地です。

ミナミの繁華街のど真ん中に突如現れる巨大なスタジアムは、当時の大阪人にとって特別なシンボルでした。

4-1. 傾斜37度!すり鉢球場のリアルな逸話と杉浦監督の涙

https://www.sankei.com/article/20240122-4PUM3JE77NPX5IRGHKMCXFP37E/

戦後復興期の1950年、焼け野原にわずか8ヶ月の突貫工事で建設されました。

都会の狭い一等地に無理やり建てられたため、スタンドは信じられないほどの急勾配

メガホンを叩く音や、愛のある強烈なヤジがすり鉢の底へと響き渡る独特の熱気は、今でも耳の奥に残っています。

また、観客席の下にはボウリング場や卓球場、場外馬券場などが詰め込まれており、野球がない日でも遊べる「総合レジャー施設」でもありました。

  • 恐怖の急勾配
    傾斜はなんと最大37度!「酔っ払いが階段から転げ落ちた」という、都市伝説のようなリアルな逸話が絶えませんでした。
  • 永遠の紙飛行機
    すり鉢状の構造ゆえに独特の上昇気流が発生し、上段席から飛ばした紙飛行機がいつまでもフワフワと落ちてこない光景は、子どもたちの格好の遊びでしたよね。
  • 涙腺崩壊のラスト
    1988年の球団譲渡時、杉浦監督がファンに向けた「行ってまいります」という最後の一言。
    緑のホークス帽を被った大の大人たちが、声を上げて泣き崩れました。

4-2. 衝撃の光景!グラウンド内に現れた「住宅展示場」

ホークスが大阪を去った後、球場は信じられない姿へと変貌を遂げます。

1990年で野球場としての役割を終えたグラウンドに、なんと21棟ものモデルハウスが建ち並ぶ「住宅展示場」が出現したのです。

あのシュールな光景当時の記憶
異様なコントラスト巨大な緑色のスタンドに囲まれた人工芝のど真ん中に、カラフルな一軒家がズラリと並ぶ信じられない光景。
まるでジオラマスタンドの上から見下ろすと、まるで巨大なミニチュア模型のようで、現実とは思えない不思議な感覚に陥りました。

跡地は「なんばパークス」へ、今も残るピッチャーズプレート

あのシュールな住宅展示場も1998年に解体され、現在その跡地は緑あふれる巨大商業施設「なんばパークス」へと美しい変貌を遂げています。

すっかりオシャレな街並みに変わってしまいましたが、2階の広場にはかつての「ピッチャーズプレート」と「ホームベース」の位置を示す記念プレートが静かに埋め込まれています。

さらに9階の「南海ホークスメモリアルギャラリー」を訪れれば、あの頃の熱狂が鮮やかによみがえります。

休日のミナミを歩いていると、不意に緑のユニフォームの残像や、スタンドの熱気がふわりと漂ってくるような気がしませんか?

PLランド(富田林市)

富田林市の広大な丘陵地に広がり、春の桜や夏のプールで南河内の人々を熱狂させた一大遊園地です。

南河内エリア出身の方なら、きっと甘酸っぱい記憶が胸に込み上げてくるはずです。

関西一!2万人収容のジャンボプールと流れるプールの熱気

夏休みといえば、朝から夕方まで「PLプール三昧」が定番でした。

当時としては珍しかった巨大な「流れるプール」に浮き輪を浮かべ、ただひたすら水流に身をまかせているだけで、時間が経つのも忘れるほど最高に幸せでしたよね。

  • 無限ループの流れるプール
    友達とぷかぷか流されながらのおしゃべり。水面のギラギラした太陽の反射と、浮き輪のビニールが肌に張り付く感覚が懐かしいですね。
  • スライダーの熱狂
    何度も階段を駆け上がり、息を切らしながら滑り降りる子どもたち。
    夕方には唇が少し紫色になるまで遊び尽くしました。
  • プールサイドの誘惑
    塩素の匂いに混じって漂ってくる、売店のフランクフルトや焼きそばの香ばしい匂い。
    お小遣いを使って買ったかき氷で、舌を真っ赤に染め合った思い出は色褪せません。

レトロな遊具と、大自然を満喫するお花見ピクニック

http://blog.livedoor.jp/muramotoshika2/archives/52145531.html

気候の良い春や秋には、レトロでほのぼのとしたアトラクションと大自然をセットで楽しむのがお決まりのルートでした。

絶叫マシンこそありませんでしたが、ゴーカートや観覧車、飛行機の形をした乗り物など、優しい雰囲気の遊具に子どもたちは大はしゃぎ。

お昼になれば、1万本もの「PLざくら」が咲き誇る広場でピクニックです。

桜の木の下にレジャーシートを広げ、みんなでワイワイつつき合ったお母さん特製のお弁当。

ぽかぽかとした陽だまりと、土の匂い、そして家族の笑顔がそこにはありました。

まるでRPGのラスボス!?異様な存在感を放つ「PLタワー」

そして一日の締めくくりは、なんといっても高さ180mの白亜の巨塔「大平和祈念塔(PLタワー)」です。

遠くからでも一目でわかるその圧倒的で異次元なビジュアルは、子ども心に「RPGのラスボスが住む塔」のような畏れ多さを感じさせたものです。

記憶に残るタワーの思い出と現在エモーショナルな情景
足がすくむ展望台エレベーターで展望台まで登り、恐る恐る見下ろした大阪平野。
街がまるでミニチュアのように見えて、足がすくみながらも感動しました。
時代の変遷客足の減少から1980年代に「桜ヶ丘遊園」と名を変え、1989年に完全閉園。
あの頃の歓声はもう聞こえません。
現在の静寂かつて登れた展望台は閉鎖され、今は一部を除き一般には開放されていません。

今も南河内の風景に溶け込んでいるPLタワーを見上げると、流れるプールの冷たい水の感触や、楽しかった家族の笑い声が、胸の奥で静かにこだまします。

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阪神百貨店 梅田本店の屋上遊園地(大阪市北区)

大阪市北区、キタの中心にあるデパートの屋上に広がっていた、昭和の子どもたちにとっての夢の国です。

梅田の空の真下で遊んだ記憶は、今も色鮮やかに残っていますよね。

レトロなエレメカゲームとパンダのバッテリーカー

https://miki800.com/hanshin_okujyo/

エレベーターの扉が開き、屋上の外気に出た瞬間のあの開放感。デパートの屋上は、都会の空に浮かぶ小さな遊園地でした。

  • もじゃもじゃのパンダ
    100円玉を入れると「ウィーン」と鈍い音を立てて動く、毛並みが少しもじゃもじゃになったパンダのバッテリーカー。
    背中に乗ってハンドルを握った時の誇らしい気持ちを覚えていますか?
  • 10円玉の魔法
    テント屋根の下には、スマートボールのようなレトロなエレメカゲームがズラリ。
    お小遣いの10円玉を握りしめ、チャリンと投入する時のあの金属音がたまりませんでした。
  • 空飛ぶミニモノレール
    小さな観覧車やミニモノレールに乗り、梅田のビル群を見下ろしたちょっとしたスリルも懐かしい思い出です。

帰りのお楽しみ!常に行列ができる地下の「いか焼き」

屋上で思う存分遊んだ後は、地下の「スナックパーク」へと向かうのが王道ルート。

エレベーターを降りた途端に漂ってくる、ソースが焦げる強烈に香ばしい匂いにお腹がグーッと鳴りました。

阪神名物「いか焼き」の記憶エモーショナルな情景
いらちも並ぶ魔法の味普段はせっかち(いらち)な大阪の大人たちも、この行列にだけは文句を言わずに大人しく並んでいました。
至福の「デラバン」玉子が入った少し贅沢な「デラバン(デラックス版)」。
熱々をその場で立ち食いする時の、あのモチモチとした食感とソースの味は最高でしたね。
家族へのお土産に包んでもらうのも定番でした。
いかの形のお皿イートイン用の発泡スチロールのお皿は、食べ終えると可愛らしい「いかの顔」が現れる遊び心がありました。

初乗り運賃と同じ「10円」から始まったお小遣いへの優しさ

現在の屋上広場

1958年(昭和33年)、百貨店の増床に合わせて誕生した屋上遊園地と、神社の縁日をヒントに生まれたいか焼き。

どちらも当時の阪神電車の初乗り運賃と同じ「10円」からスタートしたという、子どものお小遣いにも優しい、まさに庶民の味方でした。

ちなみに夏場は、屋上ビアガーデンで阪神戦の中継を見ながら大人が盛り上がるのも定番の光景でした。

建て替えに伴い、50年以上愛された屋上遊園地は2014年に惜しまれつつ幕を下ろしました。

現在、12階部分は緑があふれる憩いの「屋上広場」へと生まれ変わっています。

屋上の景色はすっかり洗練されましたが、地下に行けば、あの日と変わらない「いか焼き」が私たちを待っています。

パンダの背中で揺られた記憶と共に、あの香ばしい匂いは私たちの「大阪のDNA」に深く刻み込まれているのです。

市岡パラダイス(大阪市港区)

https://www.sankei.com/article/20151011-NFIISQPVWJKVZDPFK4QK2VZBBI/

大大阪時代と呼ばれた大正後期、大阪市港区に誕生した超巨大スケールの娯楽施設です。

私たち世代が直接足を運んだわけではありませんが、おじいちゃんやおばあちゃんの膝の上で「昔、港区にものすごい遊園地があってな…」と、遠い昔話として聞かされた記憶がある方もいらっしゃるのではないでしょうか。

戦前のUSJ!?1万2000坪の敷地にそびえ立つ飛行塔

https://x.com/tacotacomegane/status/1506653138597527557

1925年(大正14年)、「大大阪」と呼ばれ大阪が日本一の繁栄を誇っていた時代に誕生したこの施設は、まさに当時の人々にとっての「夢の国」でした。

その圧倒的な規模と西洋風のエンターテインメント性から、現代の都市史研究では「戦前のUSJ」と評されるほどです。

  • 天空を舞う飛行塔
    敷地の中心にそびえ立つ、高さ30mを誇る巨大な飛行塔。
    当時の低い街並みを見下ろしながら空を飛ぶ感覚は、どれほどの衝撃だったことでしょう。
  • 最先端の西洋ファンタジー
    約1万2000坪という広大な敷地の中に、大劇場や映画館が立ち並ぶハイカラな空間。
  • 日本初の屋内スケート
    なんと日本初となる屋内アイススケート場まで完備されており、休日は新興の中産階級の人々やモダンボーイ・モダンガールたちで熱気に満ちていました。

わずか5年で閉園へ追い込まれた数奇な運命

https://x.com/tacotacomegane/status/1506653138597527557

大阪市民の娯楽の頂点として華々しくオープンした市岡パラダイスですが、その栄華は長くは続きませんでした。

幻の遊園地と呼ばれる理由儚く消えた情景
抗えなかった時代の波開園からほどなくして世界恐慌による不況の波が押し寄せ、さらに深刻な水害に見舞われるという不運が重なりました。
わずか5年の命人々の熱狂を一身に集めた夢の空間は、開園からわずか5年後の1930年(昭和5年)にひっそりと閉園。
まさに夜空に咲いて散る打ち上げ花火のような、儚く数奇な運命でした。

現在は教習所の入り口に残る「小さな案内板」のみ

現在、その広大な跡地には中央大通が走り、上空を阪神高速が貫いています。

周辺にはMEGAドン・キホーテやドラッグストアなどが建ち並び、当時の面影はもう微塵もありません。

ただ唯一、近くの自動車教習所の入り口付近に、ひっそりと「跡地」を示す小さな案内板が立っているのみです。

行き交う車や買い物客の喧騒の中でその案内板の前に立ち、目を閉じてみてください。

大正のモダンな音楽や、飛行塔に乗って歓声を上げる人々のざわめきが、時代を超えてふわりと風に乗って聞こえてくるような気がしませんか。

街の景色は完全に上書きされてしまいましたが、幻の遊園地は今も港区の歴史の地層に静かに眠っているのです。

【番外編】ひらかたパーク(枚方市)

https://smtrc.jp/town-archives/city/hirakata/p03.html

数々のローカル遊園地が時代の波に飲まれて淘汰される中、大阪府枚方市で現在もたくましく生き残る伝説の遊園地「ひらかたパーク」

大阪人なら誰もが愛着を込めて「ひらパー」と呼ぶ、観光地にしてテーマパークのレジェンドです。

遠足の定番と、かつての秋の風物詩「大菊人形展」

関西圏の学校の「遠足」といえば、ひらパーが定番中の定番でしたよね。

そして私たち世代にとって忘れてはならないのが、かつての秋の風物詩です。

  • 秋の「大菊人形展」
    おじいちゃんやおばあちゃんに手を引かれて見に行った、鮮やかな菊の花で作られた等身大の時代劇の人物たち。
    少し独特な菊の青臭い匂いと、精巧すぎて子ども心にはちょっぴり怖かった記憶が蘇ります。
  • 涙の迷子事件
    夏休みの混み合うプールで親とはぐれてしまい、心細くてゴーグルの中にどんどん涙が溜まっていった切ない思い出。
    同じ経験をした方も多いのではないでしょうか。
  • 安心の光景
    園内のあちこちで、作業着のおじさんたちが遊具のメンテナンスをしている光景をよく見かけました。
菊人形展の現在・・・!?

毎年恒例の「ひらかた大菊人形」は、職人の高齢化や後継者不足などを理由に2005年をもって96年の歴史に幕を閉じました

現在は、枚方市の伝統を継承するべく「ひらパー×ネイキッド×枚方市」が連携した新・菊人形展などが、秋のイベントとして時折開催されています。

ピンチを救った!お金をかけない笑いの「逆張り戦略」

そんなひらパーも、黒船・USJの開業などで一時期は来園者数が半減し、他の遊園地と同じように深刻な存続の危機に陥りました。

ひらパーの奇跡の復活劇その独自のアイデア
自虐的プロモーション巨額の設備投資で対抗するのではなく、「ひらパー兄さん」や「超ひらパー兄さん」を起用した、大阪らしい笑いと自虐に満ちたCMで地元民の心を鷲掴みにしました。
アイデア勝負の遊具景色が全く見えない「ロシアン観覧車」や「目隠しライド」など、お金をかけずに「オモロさ」だけで勝負する逆張り戦略が見事に的中しました。

日本最長の営業期間を誇る、大阪が誇るレジェンド遊園地

ひらパーの開園はなんと1912年(大正元年)

もともと枚方の土地が菊の栽培に非常に適していたことから開催された「菊人形展」が、この遊園地のルーツとなっています。

開園自体は東京の「浅草花やしき」の方が古いのですが、花やしきは戦時中に一度取り壊されているため、「連続する営業期間」においては、実はひらパーが日本最長を誇ります。

また、京阪電鉄のグループであるため、今でも京阪電車の技術員が誇りを持って遊具の安全点検を行ってくれています。

あの頃一緒にプールで迷子になった友人も、今ではすっかり白髪が混じる年齢になりました。

時代が変わっても「オモロいこと」を追求し続けるひらパーのゲートをくぐれば、私たちはいつでもあの頃の無邪気な少年に戻ることができるのです。

>>ひらかたパーク公式サイト

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まとめ:心の中で生き続ける「幻のレジャースポット」

昭和から平成の大阪を彩った、幻のレジャースポット。

跡地が新しいビルや住宅街に姿を変え、もう二度とあのゲートをくぐることはできません。

けれど、プール上がりの冷えた肌の感覚や、香ばしいソースの匂い、家族と手を繋いだあの日のぬくもりは、いつまでも私たちの心の中で、色鮮やかに生き続けているのです。

No施設名市区町村歴史や思い出
1ラサ・スケートリンク大阪市此花区1963年開場。
機動隊が出動するほど熱狂した巨大リンク。
帰りに梅田の地下食堂街で食べた熱々の「チャンメン」の味が心に染み付いています。
2みさき公園泉南郡岬町1957年開園。
潮風を感じる芝生広場で食べたお弁当の味や、最終日にくす玉を割ったイルカの「ダック」の姿に大人が涙した思い出の地です。
3弁天町交通科学博物館大阪市港区1962年開館。
実物の0系新幹線や無限に押した踏切のボタン、平たい紙コップで飲んだ冷水器の味など、五感の記憶が詰まったプレイルーム。
4大阪球場大阪市浪速区1950年完成。
傾斜37度のすり鉢球場に響いたヤジと杉浦監督の涙。
閉鎖後にグラウンド内に並んだ住宅展示場のシュールな光景はまさに伝説です。
5PLランド富田林市1957年誕生。唇が紫になるまで遊んだ流れるプール、桜の下でのピクニック、そして足がすくむほど高かった白亜のPLタワーの威容が蘇ります。
6阪神百貨店 屋上遊園地大阪市北区1958年誕生。もじゃもじゃのパンダの乗り物で遊んだ後、地下で並んで買ってもらった「いか焼き」のソースの匂いが、今も鼻腔をくすぐります。
7市岡パラダイス大阪市港区1925年開園。高さ30mの飛行塔がそびえ立った「戦前のUSJ」。大大阪時代の熱狂を集めながら、わずか5年で幻となった数奇な運命の遊園地。
8ひらかたパーク枚方市1912年開園。少し青臭い大菊人形展の匂いやプールで迷子になった遠足の聖地。笑いとアイデアの「逆張り戦略」で今もたくましく生き残るレジェンド。
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