米国サンフランシスコ在住で、夏の間だけ日本のテレビ番組に出演。
「出稼ぎ芸人」と呼ばれる野沢直子さん。
世間の目を引く奇抜な髪の色やファッションで、夏の風物詩になっています。
そんな野沢直子さん、女性芸人のパイオニア的存在で、若い頃は超売れっ子としてお茶の間の人気者だったことはご存知でしょうか?
今回は、野沢直子さんが売れっ子だった若い頃のエピソードと渡米した理由について調査しました。
- 野沢直子の、若い頃エピソード
- 野沢直子が、渡米した理由
ぜひ、最後までお付き合いください。
野沢直子が超売れっ子芸人だった、若い頃のエピソード5選
野沢直子さんの若い頃のエピソードを厳選して5つ紹介します。
エピソード1:東京吉本の第一号タレント
野沢さんが、叔父で声優の那智さんに「お笑いやってみたい」と相談。
「それならここにいってみたら」と言われ、吉本興業の東京営業所、所長の木村政雄さんを訪ねたそうです。
とくに、ネタを披露したわけではなく「顔がおもろい」という理由だけで、採用!
1983年、東京吉本タレント第一号は「顔採用」で決まりました。
エピソード2:体当たり芸人のパイオニア
島田紳助に「殴りやすい女」と言われ、体当たり芸人の道へ。
エピソード3:笑っていいともレギュラー出演
芸人として活動を開始した2年目の1987年10月から、笑っていいとものレギュラーに決定し、全国区の知名度を確立しました。
きっかけは、番組企画のテレフォンショッキングの出演でした。
そこで「面白い」となり、ゲスト出演1回でレギュラーを獲得。
以後、1991年3月まで出演しました。
エピソード4:伝説のお笑いコント番組「夢で逢えたら」のレギュラーメンバー
1989年から始まった、コント番組「夢で逢えたら」の初期メンバーにレギュラー出演します。
ダウンタウン、ウッチャンナンチャン、清水ミチコ、野沢直子の6人が、ショートコントや連続ドラマ仕立ての長めのコントでお茶の間に笑いを届けた番組です。
深夜帯の番組ながら、最高視聴率は20.4%の高視聴率を記録しました。
エピソード5:レギュラー番組を全て降板し、渡米。
1991年3月、日本での芸能活動休止を宣言します。
それまで出演していた全てのレギュラー番組も降板。
単身でアメリカへ渡ります。
当時、理由として「アメリカ進出の夢に挑戦するため」と語っていましたが、本音は違っていたようです。
突然降板となった「夢で逢えたら」では、野沢さんがすぐに復帰できるように代役を立てず5人で進行しました。
野沢直子が渡米した本当の理由とは?
1991年、28歳で単身渡米した野沢さん。
アメリカへ行くことを決意した本当の理由は「挫折」だったようです。
東京吉本でデビューして以降は、とんとん拍子に女芸人として駆け上がった野澤さん。
夢で逢えたらで共演した5人の芸人と、お笑いの実力差を思い知らされました。
思い悩んだ挙句、単身でアメリカへ渡ることを決意したそうです。
まとめ
今回は、野沢直子さんの若い頃のエピソードにクローズアップして調査しました。
女芸人という言葉が生まれる前から、体当たり芸で笑いを届けてきた野沢さん。
女性お笑い芸人のパイオニア的存在で、大人気の芸人さんでした。
1980年代、レギュラー番組を何本も掛け持ちしていた絶頂期だった頃、夢で逢えたらで共演した5人のお笑い芸人と自分との才能の差に失望し挫折。
単身で渡米しました。
その後、アメリカで結婚、出産を経て、現在は夏限定で日本のテレビ番組に出演しています。
これからも毎年、夏に奇抜な格好でテレビに登場していただきたいですね。